Share

第1章 第6話 悪役令嬢、薔薇庭園に座る席

Author: 夢見叶
last update Last Updated: 2026-01-24 20:11:15

 招待状の封蝋を割った瞬間、紙が指先に噛みついた気がした。

 中から落ちたのは、追加の小さな札。席次表。そこに印刷された私の名は、主催者のすぐ右に置かれていた。

 前世の記憶が、色付きの挿絵みたいに脳裏で弾ける。薔薇の庭。白いテーブル。手を伸ばす貴婦人たち。誰かが倒れる。

 ……毒殺イベントの席だ。

 鏡の前で息を整えながら、私は頭の中に見えもしない表示を並べた。

 好感度:陛下派 やや上向き。

 好感度:旧王太子派 底。

 危険度:貴婦人お茶会 最上。

 生存条件:笑顔、観察、証拠、そして運だけは信用しない。

 背後で布が鳴った。

「お嬢様、背中をお締めいたします」

 新人メイドのリリアが、声を震わせないよう努力している。努力が可愛い。可愛いが、今日は可愛いで済まない日だ。

「息を吸って」

「はい……っ」

 彼女の指が少しだけ震えた。私のせいだ。宰相邸の空気は戦場で、社交界はもっと戦場だ。

「こちらの色は、陛下派の奥方方に評判でございます」

 メイド長アデラが、淡い灰青のドレスを掲げる。布地は静かな光を返し、派手さより格を主張する。

「旧王太子派の方々は、もう少し甘い色を好まれますが……お嬢様は甘く見られる必要がございません」

「つまり、今日は可憐さで殴るより、正論で刺す日ですのね」

「お嬢様、物騒な比喩はお控えくださいませ」

 私は笑ったまま、喉の奥が乾くのを感じた。

 正論で刺す。いつも通りだ。けれど今日は、刺した返り血が紅茶に混ざるかもしれない。

 扉の向こうで足音が止まり、低い声がした。

「準備は?」

 クロード様だ。銀縁眼鏡の向こう、視線が私の装いを数える。書類の確認と同じ速度で。

「整っております……ただ、席が良すぎましたの」

「良すぎる席は、危険の目印だ」

 即答。宰相として、が隠れていない声音。

 私は席次表を差し出す。彼は目を落とし、眉を微かに動かした。

「主催者の右。挑発だな」

「ええ。前世の私なら、ここで失敗して終わっていました」

「ならば、終わらせない」

 短い言葉の硬さが、胸の奥に残った。

 仕事の言葉だ。けれど、私の心臓はそれを勝手に甘い音に翻訳する。

 馬車の中で、私は手袋の縫い目をなぞった。

 指先が冷えるたび、前世の映像が戻ろうとする。私はそのたびに、今日の目的を言い直した。

 毒があるなら見つける。誰かが倒れる筋書きなら、書き換える。

 悪役令嬢らしく、舞台の上で。

 ローゼンベルク伯爵邸の門をくぐると、空気が薔薇の香りに変わった。

 庭園は手入れが行き届き、赤も白も桃も、咲き方の癖まで揃えられている。揃いすぎていて、息が詰まる。

 東屋の下、白いクロスの長卓。椅子の背に結ばれたリボンが風に揺れ、私の胃もそれに合わせて揺れた。

「レティシア・エルネスト侯爵令嬢様でいらっしゃいますね」

 執事が丁寧に頭を下げ、札を示す。席札。印字は美しい。美しすぎて、罠に見える。

 主催者が近づく。エリザベート・ローゼンベルク伯爵夫人。

 穏やかな笑み。柔らかな声。けれど目だけが、笑っていない。

「ようこそ。お噂は、よく」

「良い噂でしたら幸いですわ」

「噂はお庭の薔薇と同じで、風向きで香りが変わりますもの」

 そう言って、彼女は胸元に指を添えた。

 赤い薔薇のブローチ。棘の意匠が、やけに鋭い。飾りにしては攻撃的だ。

 私の視線に気づいたのか、夫人は微笑みを深くした。

「最近、物騒な噂も多いでしょう? 平等を叫ぶ輩など」

 軽い世間話の形で、喉の奥に針を落としてくる。

 私はうなずく。

「美しい言葉ほど、使い方で毒になりますわね」

 席に案内される。

 夫人の右が私。私の右に、問題児と噂される貴婦人が座っていた。オディール・ベルノワ伯爵夫人。淡い顔色で、笑みの端が薄い。

 私の左には、落ち着いた子爵夫人。さらに向こうに商家の娘と紹介された少女が、背筋を伸ばして座っている。別の端には、中立派と噂の夫人が控えめに扇子を揺らした。

 ……全員の視線が、私の顔に刺さっている。刺さるだけなら慣れている。問題は、次に何を刺してくるかだ。

 そして、ティーカップ。

 席ごとに柄が違う。私の前には、白地に小さな紫の花。右のベルノワ伯爵夫人は金縁で、蔦の模様。左の子爵夫人は淡い水色の波。主催者のカップは赤薔薇の群れ。

 卓上に並んだ小さな違いが、視線の迷路になる。私は覚える。柄、位置、取っ手の向き。砂糖壺の影が落ちる角度まで。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 夫人が席に着き、手袋の指を揃える。その動作に、無駄がない。無駄がない人間は、たいてい無駄を作らないために他人を削る。

 挨拶が終わった途端、狙いは来た。

「レティシア様。殿下を陥れたというお話、真実なの?」

 声の主は、取り巻きを連れた令嬢。カロリーヌ。名前だけで、胃がきしむ。

「殿下は、あんなにお優しかったのに」

 取り巻きが頷き、涙の代わりに好奇心を光らせる。

 感情が跳ねた。胸の奥が熱くなる。前世で、私はここで何度も悪役を演じた。台詞を言わされ、断罪され、笑われた。

 けれど今は、台本を握る手が私に戻っている。

 私は扇子を軽く開き、声をやわらかくした。

「陥れた、という表現が曖昧ですわね。具体的には、どの罪状のことでしょう」

「罪状……?」

「殿下が横領に関与していた件。学園の寄付金が消えた件。審議会の議事録改竄。どれも監査局の資料にございます」

 私は言いながら、彼女の瞳孔が揺れるのを見た。数字は、嫌われる。言い逃れを狭めるから。

「そんな……でも、殿下は」

「殿下が何を思っていようと、金は消えませんわ」

 扇子の端で、机の上の砂糖壺を指す。甘いものほど、量が決め手だ。

「寄付金の帳簿は、月ごとに合計が出ます。改竄しても、合計が合わなければ露見いたします。殿下の側近が合うように直していた痕跡も、残っております」

 沈黙が落ちた。落ちたのは私への非難ではなく、カロリーヌの自信だ。

 中立の子爵夫人が、静かに紅茶の香りを吸い込む。商家の娘が、私の言葉を値札でも読むみたいに真剣に聞く。

 ……小さな逆転。私は責められる側から、説明する側へ立ち直った。

 カロリーヌは唇を噛み、別の矢を放つ。

「でも、マリア様は泣いていたわ。あなたがいじめたって」

 その名で、胸が冷えた。前世の画面に、ヒロインの涙が重なる。

 私は目を伏せ、息を数える。怒りで声を尖らせれば、彼女たちの望む悪役に戻るだけだ。

「泣いている方が正しい、と決めるのは危険ですわ」

 顔を上げる。笑顔の形だけ、整える。

「わたくしは、殿下の婚約者でした。婚約者として、規律を守れと言いました。学園の規則を守れと……それが、いじめに見えたのでしょうね」

 夫人の指が、ブローチの棘を撫でた。

 カロリーヌは勝ったつもりで息を吐くが、周囲の空気が微妙に動いた。規律。規則。貴族が嫌いな単語ではない。むしろ、盾にしたい単語だ。

 私は続ける。

「殿下をお慕いするお気持ちは理解いたします。でも、陛下のお困りになることを、殿下のためと呼ぶのは……少々、酷ではありませんかしら」

 最後は疑問形にして、刃を丸めた。丸めた刃は、相手が勝手に握って血を出す。

「……っ」

 カロリーヌの取り巻きが視線をそらす。夫人の目が細くなった。笑っているふりのまま。

 その時、背後で陶器が触れ合う音がした。

 給仕の列。銀盆の上で、カップがわずかに揺れている。

 リリアだ。宰相邸のリリアが、ここでも補助に回されている。緊張で指が震え、盆の縁を白く握っていた。

 彼女の目が、私のカップではなく、夫人のカップに吸い寄せられているのが見えた。

 私の感情が大きく揺れた。

 怖い。怒りより、もっと根の深い怖さ。前世で見た結末が、今の空気に重なる怖さ。

 私は扇子を閉じ、膝の上で手袋の指を折り曲げた。ここで逃げれば、誰かが倒れる。残れば、私が倒れるかもしれない。

 それでも私は、座っている。椅子から降りない。

 ……この世界の脚本に、簡単に席を譲る気はない。

 夫人が穏やかな声で言った。

「皆さま、楽しいお話を。わたくしの庭は、花が多くて……手入れが大変ですの」

 庭。手入れ。棘の薔薇。

 何でもない雑談の形で、暗い合言葉みたいに耳に残る。

 紅茶が注がれ、湯気が立つ。香りが広がる。

 私の前の紫の花のカップからは、いつもより甘い匂いがした。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。

 夫人が立ち上がり、全員に視線を配った。

「さあ、皆さま。陛下のご健康を祝して」

 カップに手が伸びる。取っ手に指がかかる。陶器が小さく鳴る。

 前世では、ここから連続毒殺編が始まった。……次に倒れるのは、どの椅子の主だろう。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました   第3章 第8話 大神殿の扉と、黒薔薇の文字列

     大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。 香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。 視界の端に、黒い文字が走った。 黒薔薇の宝珠。 浄化儀礼。 開戦。 わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。「レティシア」 背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。 その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。「扉は人を選ぶんだってさ」 隣でユリウス殿下が、さらりと言った。 冗談の口調なのに、目が笑っていない。「選ばれたい趣味はございませんわ」「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」 返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。 神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。 テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。「こちらでは、左膝を……その、先に……」 わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。 王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。 リディア殿下が、小さく笑う。「迷った?」「迷いません。確認しただけですわ」「確認は大事。数学でも政治でもね」 救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。 回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。 その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。 祭壇の間へ入った。 中央の台座に、宝珠があった。 黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。 見た瞬間、胃が裏返った。 前

  • 婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました   第3章 第7話 戦争ルートの式次第と、凍りつく背筋

     日付も、場所も、順番も――前世で見た画面と同じだった。 帝国から届いた封書は、薄いのに重い。封蝋の黒薔薇が、指先に刺さるみたいに冷たい。 表題は「黒薔薇聖核浄化儀礼 式次第」。 わたくしの喉が、勝手に鳴った。 序、参列, 祝詞、献納、聖核奉安、誓約文朗読、閉式。 欄外に、王国特使の名で空欄が用意されている。 次の頁。添えられた挿絵のせいで、視界が揺れた。 硝子の棺に眠る黒い核。薔薇の棘みたいな曲線。見ただけで、こめかみが脈を打つ。 ……嫌だ。 あれに触れた瞬間から、戦争が始まる。 背後で扉が開く音がした。 わたくしは反射で紙を伏せる。遅かった。「レティシア」 クロード様の声は低い。怒っていないのに、逃げ道が消える声だ。 机の上から封書を拾い上げられた。紙が擦れる音が、やけに大きい。 わたくしは笑おうとして、失敗した。「顔色が悪い」「……帝国の朝は、空気が硬いだけですわ」「言い訳の精度が落ちている」 指先が、わたくしの額に触れた。冷えている。 その接触だけで、張り詰めていた何かがほどけかけるのが悔しい。「これは何だ」 クロード様が式次第を開き、視線を走らせる。 挿絵の頁で、眉が僅かに寄った。「……気分が悪いのか」「気分だけなら、可愛いのですが」「可愛いで済まないから聞いている」 逃げても、椅子は奪われる。 わたくしは息を吸って、口の中の乾きを噛みしめた。「この順番が……覚えのある筋書きと重なりますの」「筋書き」「前世の記憶ですわ。戦争に繋がる方の」 クロード様の目が細くなる。理性の光。 それでも、式次第の最後の欄外で止まった。「誓約文朗読。王国特使が読むのか」「空欄が、わたくしの

  • 婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました   第3章 第6話 歪んだ宮廷と、妃候補の席順

    「遠き隣人が、我が子の隣を訪ねてくれたか」 玉座の間に響いた声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。 わたくしは膝を折り、視線を上げないまま呼吸の深さだけを整える。王都の大広間に似た構図。なのに壁の紋章は棘のある薔薇で、軍旗の色が濃い。鏡の国。そう言ったのは、父だったか。 背後でクロードが同じように礼を取った。わたくしの肩に落ちる彼の気配が、いつもより静かで硬い。「レティシア・エルネストでございます。ルーベンス王国の特使として、謹んでご挨拶申し上げます」「特使、か。よい名だ」 皇帝陛下は微笑んだ。文化人の顔。けれど瞳の底にだけ、長い夜の疲れが沈んでいる。「だが、席は言葉より正直だ」「我が子よ。客人は椅子で迎えよ。言葉ではなく、席で」 椅子。 その単語だけで胸の奥が冷えた。宰相執務室の、空席が脳裏を掠める。あの場所に座れるのは、誰か。わたくしは、どこに座るのか。「父上、もちろん」 皇太子ユリウス殿下が軽く笑って、まっすぐこちらを見た。恋愛に素直で、政治には冷たい――船の上で聞いた評判が、視線の温度だけで裏返りそうになる。「王国の黒薔薇令嬢。君が来てくれて嬉しい」 その言い方が、もう社交の罠だ。嬉しい、の裏に条件が潜む。 玉座の脇から滑るように進み出たのは、細身の男。黒に近い官服、銀の鎖。目が笑っていない。「帝国宰相、ハインリヒ・クロイツでございます」 次に、同じ場所へ歩を進めた白衣の聖職者が、静かに十字を切った。白の中に、刺繍の黒薔薇が混じる。目元だけが冷たい。「大司教セルジオ・メルカド。主の祝福が、あなたの旅路にありますように」 最後に、皇太子の少し後ろで腕を組んでいた女性が、わたくしへ小さく顎を上げた。背筋がまっすぐで、瞳が理屈の光をしている。「皇女リディア。……あなた、噂より面白そうね」 政治、軍、宗教、皇族。 たった今、帝国の骨格が並べられた。わたくしの足元に、見えない盤面が敷かれていく。

  • 婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました   第3章 第5話 帝都の門と、飄々たる皇太子

    「ようこそ、帝都へ。王国の黒薔薇令嬢」  城門の影から出てきた青年が、そう言って微笑んだ。  港の湿った風が、金属と香辛料の匂いを運んでくる。石造りの城壁は王都より高く、旗は多い。軍の鷲と、光薔薇教の紋章と――黒薔薇を模した意匠まで、目につく場所へ誇らしげに掲げられていた。  私の胸の奥が、ひやりとした。  黒薔薇。帝国でその語は、ただの花ではない。「お迎えが早すぎますわね、殿下。まるで逃がさないと告げているみたい」 「逃がしたら、僕が怒られる。皇帝にね」  彼は言い切って、私へ手を差し出した。指先に迷いがない。  帝国式の挨拶だ。握手……そのまま、手袋越しに口づける。  脳裏のどこかで、前世のゲームのフレーバーテキストがぱちりと点いた気がした。私は余計な間を作らず、手袋の甲を差し出す。  唇が触れる直前、彼は視線だけで私の顔色を確かめた。「怯えてない。やっぱり噂どおりだ」 「噂は当てになりませんわ。殿下も、わりと」 「痛い。君、初対面で刺すのが上手いね」  笑いながらも、彼の瞳は冷たいほど澄んでいた。「フェルディナンド帝国皇太子、ユリウス・フォン・フェルディナンド。歓迎するよ、レティシア・エルネスト公爵令嬢」  名乗りが終わる前に、帝国の将校が儀礼の声を張る。「王国よりお越しの、皇太子妃候――」 「違う」  ユリウス殿下が、柔らかい声で遮った。 「彼女は王国の特使だ。僕の客人。言葉を選んで」  将校の背筋が、音を立てそうに硬直する。 その瞬間、私の認識が裏返った。  帝国は私を飾りにする気だと思っていた。けれど、少なくとも皇太子は、私の札を「妃候補」から「特使」へ戻した。  ありがたい。けれど同時に、怖い。これは貸しでも保護でもなく、取引だ。「恐れ入ります、殿下」  隣でクロード様が、やけに丁寧な敬語を置いた。口調が整いすぎていて、逆に刺々しい。 「王国宰相、クロード・フォン・ラグランジュ。特使代表として、礼を」 「礼はいい。君は相変わらず固いね、

  • 婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました   第3章 第4話 船上の夜と、帝国使節の影

    「帝国は、王国ほど王様の顔色を気にしませんので」 湯気の立つ皿の向こうで、帝国側の文官が涼しい顔で言った。船の食堂は昼でも薄暗く、波のうねりが床板をゆっくり押し上げる。 私はスプーンを止めた。王の言葉に怯え、宰相の判断に救われてきたこの国で育った身には、軽く投げられたその差が刺さる。 隣にいるクロードは黙っている。黙り方が、いつもより硬い。彼は私の皿の手前に置かれた白い布を、必要以上に丁寧に折り直した。「顔色を気にしない、というのは羨ましい響きですわね」 微笑んで返す。口角だけで。 文官は、こちらの反応を値踏みするように目を細めた。「羨ましい、ですか。では王国は楽でしょう。命じる者が明確だ」「明確なぶん、歪みも明確に溜まりますの」 クロードの視線が私の横顔に触れた。ほんの少し、息が浅くなる。 軍服の男が大きく笑い、食器を鳴らした。「歪みなら帝国にもあるさ。議会の連中は、剣を握ったこともないくせに戦の話をする。口は達者でな」 その言葉に、私の背筋が冷える。戦。 潮の匂いより先に、古い記憶の匂いが鼻を刺した。前世で遊んだ、あの物語の分岐点。平和が、音もなく戦に変わる瞬間の手触り。 私はスープを飲んで、胃の底に落とした。落ち着け。ここはゲームの画面じゃない。私は駒じゃない。「帝国は軍拡を進めていると聞きましたわ」 私がそう言うと、軍人は肩をすくめた。「進めているのは隣の小国も同じだ。海の向こうは広い。守るなら、備えるしかない」 文官が口を挟む。「守る、という言い方が気に入らない議員も多い。皇帝陛下の権威は強いが、帝国は陛下だけで回っていない。貴族も商会も宗教も、みな席を欲しがる」 席。 その単語だけで、胸の奥に椅子の背もたれが浮かぶ。帝国で用意される席は、私にとって居場所なのか、それとも檻なのか。 私は敢えて、話を数字へ引き寄せた。「席を欲しがるなら、税の配分は揉めますでしょう。航路税と港湾税、帝国はどちらを重く見ますの

  • 婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました   第3章 第3話 出航の日と、鏡の水面

    「皇太子妃候補レティシア・エルネスト様、乗船を確認」 港の書記が淡々と読み上げた肩書きが、潮の匂いより先に喉を刺した。 宰相の婚約者になったはずの私が、いつの間にか帝国の妃候補として数えられている。 王国の岸が、鏡の向こう側に沈んでいく。 桟橋は霧と人の熱でざわついていた。 荷を運ぶ男たちの掛け声、帆の軋む音、軍靴の乾いた足音。 全部が現実なのに、私の足元だけが薄氷みたいだった。 レオンハルト陛下が護衛の輪を割って歩み出る。 王冠はなくとも、海風が勝手に膝を折るみたいな圧がある。「忘れるな。これは政略である前に、和平のための旅だ」 命令ではなく、釘だった。 私は息を吸って、頷く。「陛下の釘は、痛いほど効きますわ」 言ってしまったあとで、自分の声が震えているのに気づく。 笑いに変える余裕なんてないのに、癖で口が動く。 父は私の手を握ったまま離さない。 侯爵の手は温かいのに、爪先は冷える。「目で戦うな。戻る場所は、まだ王国にある」 母は私の髪を整えるふりをして耳元で囁いた。 香の匂いが、子どもの頃の寝室を連れてくる。「椅子はね、座るよりも……降りる時のほうが勇気が要るのよ」 胸の奥が、ぐらりと揺れた。 宰相の隣の椅子。 王国のために座ると決めた椅子。 なのに今、私はその椅子ごと船に載せられている。 舷側へ向かう途中、視線を感じて足が止まる。 桟橋の端、少し離れた場所に馬車がある。 幌の影に、見慣れた金髪が揺れた。 アルノルト。 元王太子。 私が想像していたのは、憎しみか、嘲りか、あるいは自分勝手な呼び戻しだった。 けれど彼は、ただ帽子のつばを押さえ、深く頭を下げた。 私のほうへ、ではなく。 王国そのものへ、という角度で。 それが、最悪だった。 私の中で終わったはずの

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status